少し前置きが長くなりました。そのますむらさんの漫画を原案としたアニメ映画を私が観に行ったときの出来事。今から24年前のことです。その映画は文部省特選になったこともあり、映画館には子供たちがいっぱいでした。原作に忠実なことに加え、主要登場人物が猫として描かれること、そして、原作と原案のふたつの作品をもとにする映画ということもあって、その映画は、当時18歳だった私にも非常に難解な映画になっていました。
当然、子供たちですから、映画館の中でもざわざわと騒ぎます。非常に暗い映像と細野さんの重い音楽が続きます。なんだかなあ、静かに映画を見たいのになあ、と思いながら観ていました。映画版は、原作よりもずっと難解で、原作を何度も読んでいる私でも、これはどういう意味なんだろうと思わされることも多く、館内はどんどん静かになっていきました。子供たちは寝ているんじゃないかな、なんてことを思いながら、18歳の私は、どちらかというと、別役実さんと杉井キサブローさんの投げかける課題に挑戦するといった、少しスノッブな意識を持ちながら観賞していました。
映画がエンディングに差しかかる頃。館内から子供たちが鼻をすする音がどこからともなく聴こえてきました。子供たちが泣いているんですよね。原作を読んだ方も多いかと思いますが、べたに泣ける話ではないんです。どちらかというと宮沢賢治の仏教哲学が色濃く出た作品。つまり、子供たちは宮沢賢治の伝えたかったことに、きちんと応えて、泣くという行為で示している。少なくとも私にはそう思えました。
難解で、よくわからないな、と思いながら観ていた私は、子供たちに負けたなと思いました。もちろん、子供たちですから、ストーリーを完全に追えていたわけではないと思うし、雰囲気で感じている部分も多かったことでしょう。けれども、その映画は子供たちには、心の芯の部分で、きちんと伝わった。
そのとき、なんとなくですが、子供をなめちゃいけないな、と思いました。それは、私が広告制作などで表現をするときの基本姿勢になっています。子供だからこんなものでいいだろ、とか、子供はこんなのが好きだろう、とか、そういう考え方を排除したいと思っています。もしかすると、大人より子供のほうが、理屈が先にこない分だけ感受する深さも深いかもしれない。むしろ、子供を恐れよ。そんな感じで、受け手としての子供に向かっています。
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(Reblog from...) 子供をなめるな: ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね) (via katoyuu) (via burnworks) 「子供のほうが、感受する深さも深いかもしれない」これはあると思います。たとえば「今のゲームはそりゃあ音やグラフィックはすごいだろうけど、やっぱりファミコンが一番おもしろかったよね」と言う人がいます。 が、それは大人になった今の感受性(?)みたいなものが鈍っているから、今のゲームが楽しめず(没頭できないとか)、逆に相対的に子供時代にはファミコンをすごく深いところで感じられていたんじゃないかなと思います。その証拠に、本当に今ファミコンを試しにやってみると、5~10分でつまらなくなるケースも実際あったんですね。 もしかすると音楽も、「昔の頃の曲の方が断然良かった」と思うケースは、今の自分の感受性が鈍ったから、今の音楽が味わえないのかもしれませんね。 |