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 そして、ゴーシュはコンサートで大成功し、物語は終わる。めでたしめでたし。しかし、彼女の作文はそこでは終わらない。今度は、彼女自身の物語を書いていくのである。

 ちょっと子供が書いたとは信じられないような、印象的なエピソードがいくつも続く。

 妹が生まれて、母親に抱っこしてもらわなくなった話。母親が「抱っこしてあげようか」と誘いかけても、彼女は「いい」と断る。

「どうして」
「まきがおかあさんにだっこしてほしいと思った時、いつでもだっこしてもらえるように、わたしはもうだっこしてもらわなくていいの、まきがだっこしてほしいと思った時、わたしがだっこしていたら、まきがだっこしてもらえないでしょう」

 幼稚園で友達と仲良く出来なかった話。それに、マクドナルドのハンバーガーがたべたかったのに、たべたいといえなかった話。

 わたしは、もう一ついえなかったことがあります。わたしは、マクドナルドのハンバーガーが食べたかったのです。ようちえんで、みんなが、「マクドナルドで何食べたあ』なんてはなしているのをきいたり、となりのいえのマーくんが、マクドナルドのおまけのおもちゃを、たくさんもっているのを見たのです。わたしは、年中のころから、ずっとマクドナルドが食べたかったけど、おねだりできませんでした。マクドナルドはたかいだろうと思いました。おとうさんは、マクドナルドは食べない人だろうと思いました。

 様ざまな、それ自体は些細なエピソードから、一人の女の子の姿が浮かび上がってくる。

 おとなしい、遠慮がちな、しかしやさしく、思慮深く、大人が思ってもいないようなことを考えている少女。ひとりぼっちの少女。

 「わたしは、いえにかえってきても、うーんとがんばっていて、おとうさんにもおかあさんにもあまえることができなかったのだと思います」と、彼女は書く。

 今考えると、わたしの「がんばるぞ」は、本当の「がんばるぞ」ではなかったと思います。「つらいのがんばってがまんするぞ」の「がんばるぞ」だったのです。わたしは、へんなものがいっぱいで、じぶんじしんもまわりの人も、何もかもちゃあんと見ることができなかったと思います。わたしは、だれにもあまえないで、心をきつくしてぼろぼろないていただけだったのかもしれません。だから、いくらがんばっても、つらいことばかりだったのだと思います。私のがんばりは、がまんするだけで、本当のがんばりにつながらなかったのです。わたしはゴーシュだったと思います。

 ゴーシュには奇跡が起こった。幼いもう一人のゴーシュに奇跡は起こらない。「でも、ようえちえんのそつえんしきのあとのわたしの気もちは、まるできせきがおこったみたいでした」。

 辛かった幼稚園を卒園して、もうこの制服を着なくていいのだと悟った彼女は、母親と、そして父親に抱っこしてもらう。そのとき、彼女のなかで何かが変わる。

 それからすぐあとの日曜日、こんどはだっこの時よりがんばって、わたしは、おとうさんに言いました。「マクドナルドのハンバーガーが食べたいのでかってください」「いいよ」おとうさんはあっさり言いました。わたしはびっくりしました。そんなにかんたんに「いいよ」なんて言われると、わたしはびっくりするタイプです。

 いじらしい、とはきっとこういう子のことをいうのだろう。ぼくは、こういう子供の話に弱い。めろめろである。

 さいごに、彼女は、大人になってもひとに甘えてもいいのだということに気づく。だれにも甘えずにいると、心に、「へんなもの」が溜まっていってしまう。だから、甘えてもいい。

「おかあさんはね、さきがいつあまえてきてもいいように、いつでもさきがあまえてくるところをあけてまっているの。見えなかった?」と、おかあさんは聞きました。
 わたしは見えなかったのです。でも、今は見えます。

 そう、いまは見える。

 しかし、大人になってもまだ、この真理がわからないひとは大勢いる。

 ひとは、ひとに頼ってもいいし、甘えてもいい。泣いても、わめいてもかまわない。不完全でも、不十分でも、他人に迷惑をかけてもいい。そのままで生きていっていい。ただひたすらに耐えてばかりいると、心が歪み、たわみ、ねじ曲がっていってしまうから。

(Reblog from...)

小学校2年生の作文に泣かせられたよ。 - Something Orange

うーーーーん!!
これを小学2年生が書いただなんて、信じられないくらい、すごい。

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  1. mugen8764 reblogged this from kaiji
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